パクチーハウス東京は1月16日〜3月20日頃まで、イランを特集します。イラン旅の体験からインスピレーションを得てイラン的パクチー料理を提供します。
イラン特集のスペシャルメニュー
・アブ根グシュト
・チェロケバブ
・カスピ海サラダ
イランを旅していなければ、パクチーハウス東京は存在しなかったでしょう。
1996年夏、僕はパキスタンのクエッタから西へ、砂漠を抜けるルートでイランに入国しました。当時「世界三大地獄バスの一つ」と言われていたそのバスで約17時間。最初に降り立ったのはザヘダンという町でした。パキスタン西部とイラン東部の気候はほとんど変わりません。暑い、とにかく暑いです。しかし、国境を越えた瞬間に世界は一変しました。街は美しく、ゴミがほとんど落ちていません。舗装路は完璧なまでに真っ直ぐで、バスに乗っていてもほとんど揺れを感じないぐらいです。
「イランは怖い」。ずっとそう思っていました。みんなもそう言っていました。その少し前には上野公園でテレホンカードを売っているのがイラン人だと言われていましたし、「テロ支援国家」という文字に、テロリストが集まった国という勝手な思い込みをしていました。ドキドキしながら入国しましたが、まず、澄んだ空と美しい景色に意外さを感じたのです。
一人旅の注意事項として、出会う人々には警戒しまくっていました。怖いイランではなおさらです。ただ、トランジットビザを2度も延長した一ヶ月強の滞在期間の間、イラン人の親切さに心を鷲掴みにされ、僕の心はどんどん融けていったのでした。イラン滞在の後半戦には、「話しかけられたら絶対についていく」と決めたぐらい・・・。
ちょっと話がそれますが、旅先でバックパッカー仲間とやれどこの国がいい、あそこは行くべきでないなどと情報交換をすることがよくあります。ベトナムのメコンデルタのカフェで出会った旅人と「イランはヤバいでしょ」という話をしていた時、ある一人の廃人がつぶやきました。「イランはねぇ・・・いいんですよ」。
その廃人は薬漬けで、会話をしていても時々固まってしまうような人でした。突然動きが止まり、しばらくすると「僕、飛んでました?」と言ってこちらの世界に戻ってきます。正気の時は普通に会話ができるのですが、時折どこかへ「飛んで」行ってしまう姿を見て、麻薬って怖いなと思いました。そんな廃人が唯一イランを肯定していました。みんな廃人の戯言だと思っていましたが、僕は彼のみがイランに行った経験があることに気づき、その一言がとても気になってしまいました。「確かめてみたい」というのがイランを旅先に選んだ理由です。
イランに入国して目の前で起こった様々な出来事を通じて、僕は廃人のつぶやきを理解することになります。ガイドブックもなく各所で集めた断片的な情報とクエッタでフランス人にもらったイラン全土の地図を頼りに旅をしていましたので、行く先々で分からないことだらけでした。ほとんどのシーンで日本語はもちろんほぼ英語が通じないのですが、人々は僕のことを理解しようと努めてくれました。
イスファハンのイマームスクエアやペルセポリスなどペルシャの遺跡はもちろん壮大で素晴らしかったのですが、道中通りがかった名もなき小さな街にも秀麗なタイル張りのモスクがあり、文化度の高さを感じました。旅人の間でイランは食事がまずいと聞いていましたが、それは外食産業が発達しておらず旅人が食べるもののバリエーションが少ないだけで、家庭料理は美味しいものばかりでした。たまたま知り合った女子高の英語の先生の家に泊まりに行ったら、学校へ連れて行かれて臨時英語教師をすることになりました。親切なイラン人たちと心を通わせようとペルシャ語に耳を傾けていたら、20日目ぐらいから相手の言っていることが分かるようになりました。幼い子供でなくとも言語は自然に身につくものなのだと驚きました。
1ヶ月が過ぎ、イラン北西部のバザルガンからトルコへと出国する日、イミグレーションの役人にチャイをもらいながら「もう帰っちゃうの。もっといればいいのに」と言われた時、楽しい日々をいつまでも続けたいと本気で思いました。
イランで僕が見たもの、食べたもの、体験したこと。それらの全ては、僕が「外」で得た情報とは異なっていました。予想外のことを1ヶ月強積み重ねた結果、「一般的に言われていることより、自分の目で見たものを信じよう」と思うようになりました。旅は有名なもの、綺麗なものを確認しに行く行為ではありません。それも一つの要素ですが、自分が訪れた場所が本当はどういうところで、何が起こっているのか。そういうことを発見することこそがその醍醐味です。
イランでの体験がなければ、僕は他の多くの大学生達と同じように、卒業と同時に旅も止めていたかもしれません。自分の目で世界を見続けたい、他人の視点でなく自分の考えで世界と接していたい。そう思うことができたので旅を続けました。傍目には職の定まらない二十代の一人でしたし、自分自身キャリアというものをどう考えればいいか悶々とした時期もありました。イランを訪れてから10年以上後に旅の蓄積を日本社会に還元したいと思って、起業を決意。その第一歩がパクチーハウス東京だったのです。
パクチー料理専門店を出すことは、友人や専門からとても心配されました。「ありえない」「馬鹿げてる」と言っていただきました。ただ、イランで知った、誰かの視点より自分の判断を信じることの大切さを常に意識していましたので、日本パクチー狂会(2005年創設)の活動を通じて知った、パクチーに対する多くの人の(隠れた)パッションを信じて、世界初のパクチー料理専門店を開こうと決意したのでした。パクチーハウスの今があるのは、イランのおかげなのです。