パクチーハウス元スタッフの大澤孝将くんが、ビリヤニ専門店を神田に開くということでクラウドファンディングを始めた。是非とも応援をと思ったが、24時間以内に目標の500万円に達し、ダブルスコアも達成するのではという勢いだ。
パクチーハウスを開いて半年が経った頃、彼は突然やってきた。アルバイト募集の告知を見て、連絡をくれた。住まいは僕の出身地である秦野市。交通費が嵩むなぁと正直思った。当時は歩きか自転車で来れる人を雇うつもりでいた。しかし、秦野市に住んでいる人が来てくれるのは嬉しいなと思い、採用を決めた。
大学に入ったばかりの18歳。「旅と平和」という僕の理想について共感してくれ、また、日本パクチー 狂会やパクチー銀行、その他僕がやっている諸々を面白いと感じてくれたみたいで、ぜひ働きたいと返事があった。面接を終える頃、「ところでパクチーってどんな味なんですか?」との質問が。
「知らんで来たのか!」(笑)
そのまま厨房に行ってパクチーを食べてもらった。
アルバイトを始めてすぐに「デストロイヤー」というあだ名がついた。毎日5〜10枚のお皿を割るからだ。交通費が嵩むことを心配していたが、お皿やグラス代の方がかかりそうだなと笑っていた。
流石に割りすぎている自分を気にしていたようだが、それでもお皿やグラスは次々に割れた。ある日、置いてあったティーポットをつかんだだけでそれは割れた。たまたま横にいた僕に「僕何もしてないですよね?」とすごい顔で見つめてきたので、大笑いした。
アルバイトを掛け持ちしたり、限界まで遊ぶので、常に睡眠不足だったようだ。お皿を洗いながら、立って寝ていたこともあった。また、アルバイト後に電車に乗っては乗り過ごし、小田原で朝まで過ごしたという話も何度も聞いた。
僕や他のスタッフは皆、旅のバックグランドがあった。旅の話をよくしていたら、大澤くんは夏休みに初めての海外一人旅に行くことになった。行き先をみんなで話し合い、バンコクを中心に東南アジアを巡ることになった。何度目かの海外一人旅の帰り道、中国で事業を営む会社の社長と飛行機で隣り合わせになったらしい。数ヶ月後、その方が持つ会社の中国現地法人の社長に抜擢され、日本を離れた。
しばらくして、ビリヤニが美味いんだと言い始めた。インドやパキスタンでハマり、食べまくったようだ。「1日4食」食べていたというのは、僕がウイグルでラグマンを食べていた時と同じだ。
ほどなくして、日本ビリヤニ協会(NBA)を設立。当時、僕が日本手食協会を作るなどして、NHKブーム(略称がNHKとなる団体を作るブーム)が起こっていたが、彼はNBAを選んだ。日本パクチー 狂会のやり方をパクります、と言ってくれた時は嬉しかった。
ビリヤニの知名度は低かった。でも、好きなら情熱を捧げまくるべきだと思った。「やってればなんとかなる」と言ったらしい。それから11年経って、たくさんの蓄積が結果を生んだんだと思う。
ビリヤニイベントを開いたり、経堂のシェアレストランで「ビリヤニマサラ」という週一のビリヤニ屋をやったり、毎日ビリヤニを食べられるシェアハウス「ビリヤニハウス」を作ったり。初めて出会ったときの印象そのままにめちゃくちゃだったけど、アイデアを形にして多くの、本当に多くのファンを作った。
コロナウイルス騒動で、当時のアルバイト先の「ガラムマサラ」を救うため、ほぼ一人で通販事業を立ち上げて働き詰めで精神を壊した。その後、数度メッセンジャーなどでやり取りをし、誰とも会いたくないという返事が来たこともあって心配していた。が、やはり、クラファンの文章にある通り、ビリヤニを作ることで回復したようだ。
1月下旬に突然、鋸南に来てくれると連絡があった。飲みながら、ビリヤニ屋をやる決意を話してくれた。僕が会社を作るときに使った「優先株」を発行する方式で会社を作ることにしたので、定款を送り、あっという間に物件が決まり(2つ見ただけで決めたらしいw)、スタートに向けて爆走している。
ぜひ「ビリヤニ大澤」のビリヤニを食べてください!
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